インターネット対応

インターネット対応とは、ノートパソコンを持っている人用に「インターネットに接続できる環境が整っている」ことを指す場合が多い。パソコンが設置されているケースは少ない。 ポール=ルイ=シャルル・クローデル(Paul-Louis-Charles Claudel)は、北仏エーヌ県のヴィルヌーヴ=シュル=フェール(Villeneuve-sur-Fere)村で、父ルイ・母ルイーズの4人の子の、末子に生まれた。収税官の父の転勤で幼時を転々としたのち、1881年、パリのルイ大王高等中学校に学んだ。1884年、バカロレアに合格して哲学級へ進級し、級友のロマン・ロランとコンサートへ通い、また、文学に親しんだ。1885年(17歳)、パリ大学法学部へ進んだ。 1886年、 不用品回収の「イリュミナシオン」と「地獄の季節」を読んだ。カトリシズムに回心し、また、1887年からマラルメの「火曜会」に出席するようになった。詩作し、戯曲を書いた。1890年、外交官試験に首席で合格し、本省商務部の専門職員となった。 1935年(67歳)に退官するまでの、外交官としての経歴は次のとおりであった。在任中も、文筆を怠らなかった。 1890年2月、『フランス』外務省商務部 1893年3月 - 1893年12月:『アメリカ』。ニューヨーク副領事、ボストン領事事務扱い 1895年7月 - 1909年8月:『清国』。上海領事館、福州副領事館事務扱い、漢口副領事館事務代理、福州領事、北京公使館一等書記官、天津領事館事務取扱い、天津領事 1909年12月 - 1911年9月:『オーストリア=ハンガリー』。プラハ領事、総領事 1911年9月 - 1914年8月:『ドイツ』。フランクフルト総領事、ハンブルク総領事 1914年8月 - 1915年10月(第一次世界大戦期):『フランス』。外務省 1915年10月 - 1916年7月:『イタリア』。経済特使としてローマ 1917年1月 - 1918年12月:『ブラジル』。リオ・デ・ジャネイロ二等全権公使 1919年7月 - 1921年3月:『デンマーク』。コペンハーゲン一等全権大使 1921年(大正10年)11月19日 - 1927年(昭和2年)2月17日:『日本』。駐日フランス大使(1925年1月 - 1926年2月は休暇で帰国) 1927年3月 - 1933年4月:『アメリカ』。駐米フランス大使、ワシントンD.C. 1934年5月 - 1935年6月:『ベルギー』。駐ベルギー・フランス大使、ブリュッセル 1890年(22歳)、パリのノートルダム寺院で聖体拝領に与った。1898年、上海勤務の休暇に、約1ヶ月日本を観光した。 1900年(32歳)、一時帰国し、ジッドと交際し始めた。聖職者を志し、ソレームの僧院(Solesmes Abbey)とリギュジェの僧院(Abbaye Saint-Martin de Liguge)とに籠もったが挫折した。福州へ帰任の途次、ベルギー人のロザリー・ヴェッチ夫人(Rosalie Vetch)を知り、1905年、彼女は一女をなした。この恋愛から、のちの戯曲「真昼に分かつ」、「繻子の靴」が生まれた。 ウィークリーマンションの1906年、レーヌ・サント=マリー=ペラン(Reine Sainte-Marie-Perrin)と結婚した。5人の子をもうけた。 1917年、ブラジルへの赴任に、ダリウス・ミヨーを秘書として伴った。バレエ・リュスの旅興行を観て、トップ・ダンサーのニジンスキーと交渉を持ち、ミヨー作曲のバレエ「男と欲情」の台本を書いた。 1921年(大正10年)、駐日フランス大使となり、フランス領インドシナを経て、11月横浜に着き、1927年2月まで在日した。(次項参照) 1927年(59歳)、イゼール県モレステル(Morestel)のブラング城(Chateau de Brangues)を求め、そこと 横浜 マンションとに住まった。1928年、コロンビア大学名誉法学博士号を受けた。 1934年、バレリーナ、イダ・ルビンシュタインへの作品をミヨーから頼まれ、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を書いた。1935年、アカデミー・フランセーズ会員選挙に敗れた。6月、外交官を卒業した。 1936年、心臓を病んだ。1939年、ピオ12世の即位式の、フランス政府代表となった。同年、ケンブリッジ大学の名誉博士号を受けた。幼馴染みのロマン・ロランとの交友が復活した。 1940年(72歳)、ドイツ占領軍に監視され、著書「接触と環境」が出版後ただちに、廃棄処分にされた。1941年、ナチスのユダヤ人迫害に抗議した。1942年、アカデミー・フランセーズからの入会勧誘を、その対独汚染のゆえに拒否した。ジャン=ルイ・バローと「繻子の靴」上演を議し、1943年、短縮した上演台本を書き、11月25日からコメディ・フランセーズで上演した。以降、バローに頼られた。 1944年、解放後、ド・ゴールと交わった。1946年、モーリアックの呼びかけとドゴールの後押しを受け、アカデミー・フランセーズ会員となった。 1947年(79歳)、心臓発作を起こした。1948年、ド・ゴールの依頼により、国家評議会の会員となった。 1951年10月17日、レジョン・ドヌール大十字勲章を受けた。ロザリー・ヴェッチ夫人が没した。募る衰弱のなかで、執筆・旅行・演劇などの活動を続けた。 1955年2月23日、パリの自宅で没、86歳。その4日前まで「マリアへのお告げ」のコメディ・フランセーズ上演に関わった。2月28日、パリのノートルダム寺院で国葬が執り行われ、同年9月4日、ブラング城の一角に埋葬された。 その後も、著作・著作集の出版が続けられた。 物故直後の1955年7月、ジャン・ヴィラールのアヴィニョン演劇祭で、「都市」第2稿が初演された。遺作の上演は、なお、続いている。その中には、1987年のアヴィニョン演劇祭における、アントワーヌ・ヴィテーズ(Antoine Vitez)演出の、「繻子の靴」完全版の初演、という話題もあった。 毎年の夏、ブラング城で、ポール・クローデル協会による、故人を偲ぶ催しが開かれている。 在日時代 冷凍おせちの駐日大使時代、相い争う案件は日仏間に少なかった。東アジアの利権拡大に協力する英米から孤立してゆく日本に、同情的で、日本の対中国の、フランスの対インドシナの権益拡大を、認め合おうとする姿勢であった。ワシントン会議で主力軍艦を制限された日本は、航空戦力を増強するだろうと、フランスの飛行機の売り込みをはかる、国際的商才もあった。 姉カミーユのジャポニスムの感化で、日本を好いていた彼は、公務を縫って、日本を積極的に見聞した。 東京・京都・大阪・福岡で、学生を相手に講演した。 春庭花・納曽利などの舞楽、文楽、仮名手本忠臣蔵・石切梶原などの歌舞伎、道成寺・翁・角田川・砧などの能を観劇した。大徳寺・大覚寺・龍安寺・長谷寺・二条城・三千院・名古屋城などを巡り、狩野派の襖絵を鑑賞した。画家の富田渓仙・山本春挙・竹内栖鳳、歌舞伎の五代目中村福助、長唄の四世杵屋佐吉らと、親しくした。 雑誌改造へ2度、新潮へ1度、仏文の記事を日本語訳付きで寄稿した。日本の書店から、仏文の詩集「聖女ジュヌヴィエーヴ」、富田渓仙画の詩画集「四風帖」、その第2版の「雉橋集」、第3版の「百扇帖」、を出版した。舞踊詩劇「女と影」を書き、それは帝国劇場で、七代目松本幸四郎、五代目中村福助らによって上演された。 関東大震災に罹災しながら、救助活動を指揮し、病院と託児所とを仮設した。 1924年(大正13年)3月7日、渋沢栄一と協力して日仏会館を発足させた。1925年、大作「繻子の靴」を書きあげた。1926年、稲畑勝太郎とともに関西日仏学館の設立を推進したが、それが開館した1927年10月22日は、次の任地アメリカへ向かう船上にあった。 黄金の頭(Tete d'or):初稿1890年刊、二稿1901年刊-1924年初演(芸術と行動グループ(Groupe Art et Action))、1959年上演(コメディ・フランセーズ、ジャン=ルイ・バロー演出) 都市(La Ville):初稿1893年刊、二稿1901年刊-1955年初演(アヴィニョン演劇祭、ジャン・ヴィラール演出) 乙女ヴィオレーヌ(La Jeune Fille Violaine):初稿1892年刊、二稿1901年刊、-1959初演 交換(L'Echange):初稿1901年刊- 1914年初演(ヴィユ・コロンビエ劇場、ジャック・コポー演出)、二稿1951年作、同年初演(ルノー=バロー劇団、マリニー座、バロー演出)-1954年刊 七日目の休日(Le Repos du septieme jour):1901年刊、1928年ワルシャワ初演、1965年フランス初演 真昼に分かつ(Partage du mid):1906年刊-1921年初演(芸術と行動グループ)、台本初稿1948年-同年初演(ルノー=バロー劇団、マリニー座、バロー演出)、1949年台本二稿- 1961年初演(オデオン座フランス劇場) 鈴木力衛・渡辺守章訳、「筑摩世界文学大系56 (1976)(ISBN 4480206566)」中の一篇 人質(L'Otage):1911年刊-1914年初演(「制作座」(La Maison de l'?uvre)、リュニェ=ポー(Lugne Poe)演出) 渡辺守章訳、「白水社 現代世界演劇4(1971)」の中の一篇 堅いパン(Le Pain dur):1918年刊-1925年ドイツ初演-1949年フランス初演(バルザック座、リュニェ・ポー演出、ピエール・ルノワール主演) マリアへのお告げ(L'Annonce faite a Marie)(「乙女ヴィオレーヌ」の改作):初稿1912年刊-同年初演(「制作座」、マラコフ劇場、リュニェ=ポー演出)、二稿1940年刊- リヨンで上演、三稿1948刊-同年初演(エベルト座) 木村太郎訳、甲鳥書林 現代カトリック文芸叢書(1943)/鈴木力衛・山本功訳、「筑摩世界文学大系56 (1976)(ISBN 4480206566)」中の一篇 アガメムノン(アイスキュロスのオレステイア三部作の翻訳)(ミヨー作曲):1896年刊-1963年初演 供養する女たち(Les Choephores)(同上)(同上):1920年刊-1935年初演(ブリュッセル、イダ・ルビンシュタイン主演) 慈しみの女神たち(Les Eumenides)(同上)(同上):1920年刊-1963年ベルリン初演